よく
よく生きている、よく生きている。
本当に、よく生きている。
国立ハンセン病資料館と多磨全生園②
資料館の外に、復元されたかつての療養部屋があると知って、見学することにした。
そもそも資料館は療養所である多磨全生園の一角にある。
そしてこの場所では今も、ハンセン病からの回復者が暮らしている。
生活の場で見学の場ではないことを心に留め、マスクを着用して静かに、最低限を巡った。
綺麗に整備された碁盤の目のような道を進む。
広い道路のうえに紅葉が散っていて、歩くたびに、シャリ、シャリ、と木の葉が鳴る。
まず訪れたのは、1928年に建築され、2003年に復元された療養部屋「山吹舎」である。

紅葉とのコントラストが美しい木造建築で、ここだけ見てしまうと悲痛な生活は見えてこない。
実際にはトイレ、流し共同の4軒長屋で、1部屋12畳半に多い時は8人が共同生活をしていた。
寝返りもうてない、隣の人の息遣いすら聴こえてくるプライバシーのない空間。
強制的に隔離された入所者はこの場所で明日を待った。
山吹舎が復元されたのは、宗教施設が建つ静かな祈りのエリアだ。
仏教の各宗派とキリスト教の教会が所狭しと並ぶ。
ここは居住区域が写らないので写真に納めることができた。
療養所内の学校跡や旧図書館を眺めたあと、「誰でもどうぞ」との看板がある小さな食堂に向かう。

東村山市の名物「黒焼きそば」
イカ墨を使った甘辛い焼きそばを食べた。
ほとんど人通りのない園内で、この場所だけはスタッフ同士の仲の良さそうな声が聴こえる。
この場所に日常があること、外界に繋がっていることを感じられて、すこし心がほどけた。
「また来てくださいね」と声をかけていただき、食堂を後にした。
食堂から資料館に引き返す道中、何名かの入所者とすれ違った。
多磨全生園に暮らしがあること、その点が他の資料館と一線を画している。
資料館というものは性質上、基本的に過去の歴史を展示している。
だから、我々来場者は勝手に心を寄せることはあっても、過去と今が地続きであることを実感できることは少ない。
資料館にあるのはあくまで「点」としての出来事だからだ。
一歩外に出てしまえば、いつもの日常に戻る。
しかしこの場所では、資料館の外にたしかに、来場者の日常とは違う暮らしがある。
そしてその暮らしに特別さはない。
ありふれた「日常」なのである。
園内には不思議な静けさがあった。
それは1年半前に訪れた福島県東松島市の静けさによく似ていた。
東日本大震災と津波で甚大な被害を受けた東松島市には、整備された仮設住宅が並び、海水浴場として栄えたかつての活気はない。
人間が暮らす場所には本来雑音がある。
それは生活から滲み出る個性の音だ。
時計が進む限り、雑音がうまれる。
しかし、整備された仮設住宅も療養所も、均質だ。
そこには雑音がない。
時計が止まったままなのだ。
東日本大震災が過去の出来事ではないことと同じように、ハンセン病とその差別の歴史はまだ終わっていない。
そして、結局この先どう生きるかということだが、不自由さのなかでの生きがいは創作活動に見出せるらしいとわかった。
と言うよりも、他には見出しにくいことがわかった。
入所者は金銭的、身体的不自由があるなかで作品をつくり続けた。
音楽、美術、そして文学。
日本国内からハンセン病回復者がいなくなる未来がくる。
そのときに彼らの存在と生き方を証明するのは、あまたの創作物だろう。
何かを生み出すことは自らを癒すことでもある。
この文章もその一環として、ここに書くものである。
あとは刺繍とか、多少体調がわるくて手がつかない時間があっても支障のないもの(この点盆栽などの育てる系は支障が出るのでできない)をやっていこうと思う。
静かに、でも口をつぐむことなく、内向きで弱々しいものであったとしても、創り続けたい。
「社会復帰のみが更生ではない。
歩けないものが歩き、箒を持たなかったものが箒を持ち、
フォークを持てなかったものがフォークを持つことが更生である。
自主自由とはかかることを意味しなければならない。」
(田村馨「不自由さの自主性ということ」1960年)
国立ハンセン病資料館と多磨全生園①
念願だった場所にようやく行くことができた。

ハンセン病を知ったのは小学校高学年の頃だった。
大谷吉継という戦国武将が、ある病気に罹患していた説があると知った。
それが「らい病」、つまりハンセン病だった。
しかし「らい病」に罹患した彼は、顔や身体から膿が出るようになり、やがて失明。
その才を存分に発揮する機会を奪われた。
なんて恐ろしく、むごい病なのだろうと思った。
ハンセン病が現代にもあること、激しい差別と偏見にさらされてきたことを知ったのはもうすこしあとである。
しかし、健康だった私は病人への差別を酷い話だと思うことはあっても、どこか蚊帳の外から見ていたところがあった。
それが、言い逃れできないほど鬱病が悪化し、寛解の兆しが見えなくなってから猛烈なシンパシーをもって捉えるようになった。
私は寛解を目指すのではなく、病気と並走する未来を考えなくてはならない。
そう思ったとき、人間がどのように病気と闘い、社会と闘い、自らの生を受け入れてきたのか、知りたいと思った。
東村山市は自宅から片道2時間超、体力が落ち切った私にはハードルが高い場所だ。
今回は周囲のサポートがあり、この地を訪れることができた。
展示はハンセン病そのものの解説から、ハンセン病を取り巻く歴史、患者のくらしと闘い、そして生きた証まで、幅広く充実している。
(コンテンツ内容は公式ホームページに詳しい)
いくつかSNS掲載OKの展示物を載せていきたい。

現在では治療薬があり、完治するハンセン病だが、かつては根拠のない「治療」が行われていた。
そのひとつが油を体内に注射するというものだ。
激痛を伴ううえに、効果はない。
各地の療養所に残された現物は生々しく、「治療」の残酷さを物語っている。

瀬戸内海の島にある療養所、大島青松園に置かれた石仏。
かつてハンセン病は、前世の悪業の報いで罹患すると考えられていた。
治療法もなく激しい偏見だけがある社会で、ハンセン病患者は仏に縋った。
これには私も覚えがある。
重度の鬱病だとわかる前、謎の体調不良を主訴に多くの病院をまわった。
身体に異常はない、わからない、できることはない、と医師に言われ続けて落胆し、行き着いた先は神仏だった。
いくつかの神社仏閣で祈祷し、お守りを身につけた。
特に効能は感じられなかったが、もうそうして気を紛らわせるしかなかった。
自己満足的な同一視はしたくないが、仏に祈りを捧げた人々の気持ちは私も想像に易い。
強制的に隔離され、それまでの暮らしを奪われた人々は、療養所内で創作活動をはじめる。

彼は多磨全生園で執筆活動を行なった。
「同情!
これほどたまらないことが他にあるだろうか。
同情されるとは何か、それは同情されねばならんほど自分が無価値で、無意義な存在を証明するものだ。
これが俺にはたまらんのだ」
(1937年2月4日 直筆日記より)
資料館の展示を見ている時にも、他の来場者から「かわいそう」という言葉が漏れていた。
そこには健康な人間の持つ優しい、残酷さがある。
この21世紀における精神病患者すら、「気持ち悪い」「頭がおかしい」「心が弱い」「努力不足」とブジョクされる。
しかしもう、その手のブジョクは、とりわけ鬱病が脳の病気であり、心の弱さや努力不足とは関係がないことが証明されている今は、ただの理解不足で片付けられる。
本当に堪えるのは、優しさに見せかけた同情だ。
同情する人々の中には、決して自分は病気になることがないという前提が、うっすらと横たわっている。
自分たちとは違う人間だと思われていることが透けて見えるのだ。
その考えの浅ましさと、本人は優しさだと思い込んでいるという浅ましさの根深さに無力さを感じてならないのだ。
もちろん、隔離され人権を奪われたハンセン病患者と、ある程度の偏見はあれど社会のなかで暮らす術がある私とでは、置かれている環境が違いすぎる。
安易な同一視は、それこそ同情と同じだ。
許されはしないだろう。
そう自分を戒めようとしたが、心のどこかで、近しい感情を持つ人間を見つけた悦びを感じてしまった。
ハンセン病患者が遺した文学作品は、その他にもいくつか展示されていた。
ここでひとつ、紹介したい。
「拾年前
隣人は私の生存を悪(にく)んだ
五年前には同胞(きょうだい)が
今は私自身が
のこるは一人の母親だが
涙ながらに生きてよと言ふ」
「癩」明石海人, 1939年
この詩に対しての言葉は、ここには書かない。
ハンセン病は早期治療をすれば、後遺症は残らない病気である。
しかし治療時期が遅れると重篤な後遺症をもたらすことがある。
後遺症により手足が変形、欠損して感覚が失われ、失明した先に、入所者が見出したのが「舌読」だった。

感覚がある舌で点字を読み取る。
資料館の中でもひときわ目を惹く一枚だ。
たとえ障害を負っても、残された機能で懸命に生きる。
そこには人間の尊厳とたくましさがある。
いや、果たしてそうだろうか。
これを感動的な営みだと感じること自体、患者像の娯楽的な消費ではないのか。
もし私が、落ちた体力をカバーするためにしぶしぶやっていること、例えばベッドの上に布団で土手を作り、できるだけ楽な体制をつくりながら起き上がることなく仕事をする様子を写真に撮られて、「病気と闘いながら前を向く様子」などと言われたら閉口する。
私は、この手の写真をどのように見ていいのか、まだわからない。
ハンセン病患者は、ハンセン病患者としてのアイデンティティをもって語られる。
しかし、誰しもに健康だった時期があり、「ハンセン病患者」以外の側面がある。
後天的・社会的につくられたアイデンティティを押し付けられ、社会の構成員から省かれ、なき者とされた末に、ただ生きていく様を尊さとして消費される。
そこに猛烈な違和感と理不尽さを感じてならない。
私は、鬱病患者である前に私だ。
ハンセン病患者も、患者である前に、その人個人だ。
ただの市井の人なのだ。
フィルターをかけ、自分とは違う存在として第三者的に消費してはいないだろうかと自分に問いかけた。
療養所への入所者は完治後も、療養所での生活を続けることが多かった。
外に出ても偏見に晒され、生活を営むのは困難だったからだ。
最期すら家族が引き取りを拒むことも多かった。
支援者は家族が拒んでいることを本人に隠しながら看取ることもあったという。
帰宅する日を夢見ながら息を引き取った彼らの遺骨は、各地の納骨堂に眠っている。
(国立ハンセン病資料館と多磨全生園② に続く)
30歳の話
30歳になった。
かわいい30代になろうと思う。
Xの投稿から⑤
毎夜、決して目覚めることがないようにと祈りながら眠りにつき、毎朝、目が覚めてしまったと絶望していた。
また今日がきてしまった、生きてしまった、と。
ベッドの上で呼吸するだけで精一杯だった。
食事も入浴も、明日のことを考えることも叶わない。
なぜ身体だけは死んでくれないのかと恨んだ。
あらゆることを諦めた。
諦めたことが多すぎて、いつからか数えるのをやめた。
いまも健康な人と比べたら満足な生活はできない。
突然倒れこんでしまうし、外出はできても遠出することはできない。
毎日入浴はできないし、固形物が喉を通らないこともある。
家庭を持つことなど、さらさら考えられない。
それでも明日がくることを受け入れられるようになった。
身体が呼吸以外のことをできるようになった。
ひとときだけかもしれない。
でもいまたしかに、あの苦しみから解放されているのだ。
その有り難みをどう表現したらいいのだろうか。
(@5tO2mp) 一部改稿
Xの投稿から③
深夜、泣き声で父を起こしてしまって軽い口論になった。
父にとっては些細な、私にとっては重すぎる言葉に傷ついて、たまらず家を飛び出した。
行く場所が見つからず、深夜の街をぐるぐると巡った。
やっと漫画喫茶の一部屋を見つけた。
父とは一緒にいられない。
あたたかい記憶があるだけに胸が張り裂けそうだがこのままでは刺してしまうかもしれない。
(@5tO2mp) 一部改稿