15年程前に、よく当たるという占い師に占ってもらったことがある。
私の前世は中国の歴史家で、(これもなんだかなあとは思いつつ、実は思い当たるフシもあるので半分だけネタにしている)その叙述により戦争を引き起こしたことが今世に影響を与えていると言われた。
占い師曰く、私はひどく大きな罪悪感をかかえて生きている、らしい。
ちょうどその頃、自分でもなぜそんなことをしてしまうのかわからないまま、故意に自らを傷付ける行為を繰り返していた。
痛みを感じるたびに妙に安心した。
痛みを忘れるとまた自ら傷付きにいった。
あれは、こんな自分は罰せられるべきだ、誰も罰さないなら自分が自分を罰しよう、そう思っていたからだったのだと、すこし経ってから気付いた。
この「傷付きに行く癖」は治ることもなく、たびたび私を苦しめた。
過度に自分を追い込み、状況や背景があまりにも違う他者と自分を比較しては自分を卑下した。
大切にしてくれないとわかっている人を必死で追いかけ続けた。
そのたびに勝手に傷付き、自分には価値がないと勘違いしては怯えた。
価値がない私はもっと傷付くべきだ、罰せられるべきだと、自分に鞭を打ってはその苦しみに安堵した。
苦しみは溶けてなくなることはない。
ただ蓄積し、やがて爆発する。
社会から何度も離脱しかけながら、私はがたがたとした、平凡な人生を生きている。
期待どおりでなかった人生が目の前にあると思うことは、私を苦しめる格好の材料になった。
私は人生や自分に絶望し、希死念慮と自己批判を常に抱きながら、また自分に鞭を打っては安心した。
そうして一向に自分を愛せないまま、30年弱生きてしまった。
今日またひとつ、私は年をとった。
もうこんな生き方はやめようと思う。
ただ、くるしいからだ。
くるしいから、もうやめたい。
本当は私は誰よりも私を愛し抜きたいのだ。
小学生の頃の日記帳に「大人になるということは自分を受け入れるということなんだろう」と書いてあった。
もうその頃には、私は自分の限界を感じ、望むような人生は待っていないことを悟っていた。
人生を諦めていくことが大人になることなんだと思っていた。
そしてやはり、望むような人生は私の手にはない。
小学生の私にひとつだけ伝えたい。
人生を諦めるのでもなく、過度に期待するのでもなく、ただ手の中にあるものをありのまま愛することが、生きることの本髄だ、と。
私のこれからの人生は、自分を愛しぬくことに使いたい。
病めるときも健やかなるときも、駆けるときも止まるときも、いついかなるときも、存在しているだけで私は価値があるのだと認め続ける人生にしたい。
これは妥協かもしれない。甘やかしているのかもしれない。
それでも私を苦しみから救うために、私は私をただありのまま、愛したいのだ。
この愛を、これからの目標にしよう。
もっとも、今後も生きていられるかという健康問題は別の話なのだが。