本の話
本が好きなのか本が好きな自分が好きなのか、はたまた本がある空間が好きなのか、もはやよくわからないが、本が好きである。
本屋や図書館に飽き足らず、ブックカフェやブックホテルまで行って本を物色し、そこで出会った本を買うこともしばしばある。
けれども結局、買って満足してしまい、開きもしない本も多い。
本というものは、美術品と同じで、「そこにあるから魅力的」という類のものがあるのではないかと思う。
雨が降る日の古民家カフェで、あたたかいコーヒーを片手に読んだ本。
旅先のモダンな本棚でみつけた、現地の暮らしについて綴った本。
心を揺らす本をみつけたときは、運命の出会いをしたと思う。
しかし購入して、家のなかであらためて見る本は、出会ったときの輝きを失っている。
あるいは精神状態の揺らぎの中で、一際輝いて見える本もある。
仕事のこと、生活のこと、人生のこと、溢れ出る悩みのなかで、解決に導いてくれそうな本を見つけて買ってみるが、買った頃には悩みが色を失っていたり、逆に悩みが膨らみ過ぎて、ページを捲ることすら心の負担になったりしている。
安心するためにただ手元に置いている本もある。
仕事に関する本がその例だ。
心から関心がある分野ではないから中々読み進められない。
法律関係の本、仕事の進め方の本、著名人の仕事の話をまとめた本、オンライン会議のコツに関する本、肥やしと化している本は枚挙にいとまがない。
けれども持っておくと、なんとなく仕事に関して1コマ進められている気がするから本棚に並べてみている。
結局、自宅の本棚を見てみると、1ページも目を通していない本がポツポツある。
それ以外も、最後まで読み終わっていない本ばかりだ。
まずは手持ちの本をしっかり読み終わってから、あたらしい本を手にしようと思うのに、いまも目の前にあるのは図書館で借りてきたあたらしい短編集である。
生来の癖で、物を買ったなら価格分の元を取るべきだと思ってしまう。
だから、肥やしにしている今の状況はとてもきまりがわるい。
しかし、そもそも本の「価格分の価値」とはなんだろうか。
本を隅から隅まで読んで、知識を頭に入れ込んだり、感動を心から味わったりすることが本のただしい価値なのだろうか。
本を買うことで、一瞬でも気が紛れたり満足感を味わえたり、なんらかの安らぎを手に入れたこと。
それはもう価格分の価値があるのかもしれないとも思う。
そもそも本がシチュエーションによって輝きを放つなら、シチュエーションによってその輝きが再興することもあるだろう。
そうであれば自宅本棚の「コレクション」はまたタイミングが訪れたら覗けばいいか。
いまはとりあえず気の進むままに、文字の海を探検しよう。
本を全部読み切る必要もない。
文字に触れて、なんとなくいい時間を過ごせればそれでいい。
ぼんやり、適当に。
それが私にとって、今のところ一番良さそうである。