慢性疾患になってから、人からの声かけが善意だとわかっていても悲しくなってしまうことがあると気付いた。
たとえば、久しぶりに会った人がよく言ってくれる「元気そうだね」という言葉がある。
これに心配してくれていたんだなあ有難いなあ…などという思いは実のところ全くわかない。
ただ「いや今日は頑張って元気に見せてるだけで、普段は床に伏せって死にたい死にたい殺してくれと思いながら天井を見つめているんだけどな」と思うのみである。
「人生そういう時もあるよね!ゆっくり行こ」
このタイプの声かけも心にくるものがある。
キミの人生には「そういう時」=「慢性疾患に苦しめられる時間」はないだろう。
大変だねと心配してくれたうえで、「体調が悪い時に自分はこうしている」と頼んでもいない自分語りをしてくれる人もいる。
健康な人間が時々抱く「調子が悪いなあ」とか「疲れたなあ」という類の、生き物として普遍的にある感覚と慢性疾患は全く違う。
こう同一視されると、もう心のシャッターは完全に下りてしまう。
休んで元気になるとか、気をつけて体調管理をすれば調子良く過ごせるか、そういう一般的な体調不良を私は体調不良と呼ばない。
外部環境にかかわらず、突然予測不可能なタイミングで訪れる体調不良、それも気合いでどうにかなるレベルではなく、インフルエンザに罹患した時のような重い倦怠感。
ほんの数歩歩くだけで、フルマラソンを走ったかのようなとてつもない疲労感。
これが慢性疾患による体調不良である。
…と、面と向かって説明しても説明を受けた方は反応に困るだろうから、なにを言われてもハハハと日本人得意の愛想笑いで応えることになる。
人からされたくないことをするな、されて嬉しいことをしろ、という教育格言は誰もが耳にしたことがあると思うが、なかなかに詭弁である。
自分がされて嬉しいことが他人にとっても嬉しいとは全くもって限らず、逆に他人にとってはされたくないことかもしれないのだ。
そうは言いつつも、慢性疾患を抱える友人と久しぶりに会うと、あやうく「元気そうだね」と言ってしまうこともある。
考えあぐねて、「なにかあったら遠慮なく言ってね」と捻り出すが、果たしてそれも友人にとって言われて嬉しいことかどうかわからない。
コミュニケーションは、つくづくむずかしい。