暇コラム

かいさ〜ん

自分を知るという営み

自分の性質を不可避だった経験で説明したくはないのだが、私は人との関係において、それがどんな関係であろうと根本的に期待することはないように思う。

すべていつか終わるだろうと思いながら、誰かと関係を築いている。

終わらせるべきタイミングがきたら、たとえどんなに深い関係の人とでも縁を切る覚悟を腹の底で持っておきたい。

それは親でもきょうだいでも、友人でも、恋人でも、そのどれにもカテゴライズされない関係でも。

その覚悟があることで安心感を抱いてはじめて、人間関係を構築することができる。

それなのにその反面、関係が終わらないことへの漠然とした憧れを抱いている。

厄介だと思う。

 

不可避な別れを何度も経験した。

どんなに深い関係になっても次の日からあっさりと会わなくなることに、酷く嘆き悲しんだこともあった。

ただ、中学生くらいになったときにはもう別れにドライな感情を抱いていたように思う。

その場では別れを悲しみ、泣き叫ぶことがあっても、いざその人という物理的存在と離れて、ひとりの空間に入れば、波のように急に感情がさめて消えていく。すん、という音が聞こえる。

それも駅のホームで別れてからたった数秒の間、というようなスパンで、すん、とさめていく。

 

できる限り自分を自分の言葉で説明尽くして理解したいが、人間にはどうもそうはできないぼんやりとした部分がある。

私の中にはウェットな感情とドライな感情が確かに共存して、その間を瞬時に反復横跳びしていく。

エモーショナルでウェットな感情を抱きながら、瞬時に残酷なほどにドライになれる自分を、実のところ私は、強烈に愛している。

 

人は自分を理解してくれる人なんかいなくても生きていけるということを知ることが一番大切なことだと、とある本にあった。

理解というのはひどく定義が曖昧で、ぼんやりとして、耽美な響きがある。

だからあまり理解という言葉を使いたくはないのだが、あえて使うとすると、私は誰からも理解されない私がいることに心底、安心している。

その状況の中だからこそ、私は私自身を深く愛しているんだと思う。

 

不意に、こんなにも自分を愛していることを猛烈に思い出した。

それは人との関わりのなかで偶発的に訪れた瞬間で、結局人間は自分が何者かを知るためには人と関わる他ないのだろうと思う。

他者との関わりのなかで、自分が把握しきれていない、あるいは忘れ去ってしまっていた自分が不意に現れる。

人間関係はすべて自分を知るという営みに過ぎない。

私は猛烈に自分を愛していて、自分を"理解"したいと思うからこそ、すべての人間関係を実験のように感じながら、そこに現れる新たな自分に満足してきたのだ。

 

この1ヶ月ほどで、ようやく気付いたことがある。

私はいまこの場所に立っていることに対して、長らく、満足はできていなかった。

だから私が持つあらゆる物事に対して、なんの努力もしていないというフリをし、涼しい顔をすることで感情の均衡を保ってきた。

 

ただ本当は、そんな美学には反する、随分かっこわるいことを認めるべきなんだと思う。

私は私だけのために、人生の毎秒、努力をしてきた。

私の努力は他の誰にも穢されない、尊いものだ。

私は27年間、ただひとりで生きてきたことを心の底から肯定している。