暇コラム

鬱病と生きる会社員のブログ

弔文

死のうと思っていた。

学校の廊下で自分を刺すつもりだった。

 

いつ、どうやって決行するか二週間考えた。

最後に自分を刺すナイフを買おうと店に出向いた。

 

手が、震えた。

ナイフを棚から取ることもできなかった。

 

私は死ねなかった。

 

 

あのときナイフを手にしていたら、

あのとき本当に自分を刺していたら、

あるいはもっと心をすり減らした先で

意思も意識もないまま、ふと命が途切れていたら。

 

誰かが死を選ぶたび、

あのまま死んだもうひとりの自分の

死後の世界をみているような、そんな気分になってしまう。

 

昨日となにも変わらない風がふき、

昨日と変わらない人々の生活がある。

ただそこに昨日まであった命だけがない。

平等に、残酷に、明日が来る。

私たちは今日も誰かのいない明日を生きている。

 

あのとき死ななくて良かったのかどうか、

問われると答えに窮してしまう。

あのあと幸せなことにも愛する人にも

たくさん出会ったはずなのに、

私はなんと答えていいのかわからなくなるのだ。

 

生きてさえ、いれば。

そう聞くたびに、もうひとりの自分が言う。

もう必死に生きた、私を責めないで、と。

 

もしあのとき連絡していたら。

もしあのとき無理やりでも病院に連れていっていたら。

残された人間の後悔は途切れることはないが、

どれもすべて空虚でしかない。

誰かの助けが欲しかった人もいれば、

もうなにも欲しくなかった人もいる。

誰かを恨んでいた人もいれば、

なにも恨んでいなかった人もいる。

今、目の当たりにしている社会で、

救いを求める人がいるなら

さしのべる手が必要なのはたしかだろう。

だが、どんな人生の終え方でも

その人の人生が尊いものであったことに変わりはない。

残された我々は、批難でも後悔でもなく、

深い愛と感謝を抱えて生きていこう。

それが残された者にできる弔い方だと思っている。