宜野湾は那覇から程近いベッドタウンで、観光地らしい観光地のない静かなところだ。
生まれは関西だが、関西の記憶はほとんどない。
沖縄は私にとってきちんと記憶があるはじめての場所になる。
抜けるような青い空、どこまでも続くエメラルドグリーンの海、輝く白い砂浜。
三線の音楽と陽気な人々、暖かい南国の風。
観光客向けのパンフレットに描かれる沖縄をそのまま、特に珍しいものだとも思わずに享受した。
それはきっととてつもない贅沢だったのだと思う。
しかし、これもしばしばメディアに取り上げられるように、沖縄は閉鎖的で保守的な土地でもある。
私たちは「ナイチャー」つまり県外からきた『内地の人間』と呼ばれる。
そしてそうであることは、申告するまでもなく顔つきや名前でわかってしまう。
沖縄戦で沖縄県民を死に追いやったのは、敵国だったアメリカの人間ではなく内地の人間だったと何度も聞かされた。
沖縄の反戦教育は、関東の比ではない。
学者によっては沖縄の戦争はまだ終わっていないと主張する人もいるほどに、生活の中に戦争の影が溶け込んでいる。
幼稚園児だった私は、戦争という得体の知れない恐ろしい概念とそれに相対する内地という存在を前に、『内地の人間』としてのアイデンティティを内在化せざるを得なかった。
南国の太陽の下で沖縄の歌や文化をどんなに覚えても、
私はなまりのない言葉を話すことにこだわり、
沖縄料理よりも「普通の」日本食を好んで食べた。
小学校のクラスメートにはそもそも純日本人ではない子もいたから、内地の人間としてのプライドをむくむくと育てていくのに環境は十分だった。
そんな沖縄での生活はあっけなく終わった。
小学2年生の冬、私は『内地』に戻り、
鎌倉という穏やかなところで暮らすことになった。
沖縄では一際色白で、内地の文化を持っていたはずの自分が、
引っ越した先の鎌倉では誰よりもこんがりと焼けた肌をしていて、そして内地のことをなにも知らなかった。
沖縄県外に米軍基地があることも、慰霊の日が全国区ではないことも、ぜんざいは温かいということも、なにひとつ知らなかった。
鎌倉での生活でつらいことはなかった。
誰もが優しかったし、おだやかでいい場所だった。
ただ、どこまでも広がる青い空が、
真っ白な砂浜が、抜けるように鮮やかな海が、
夕方の街に響く三線の音が、鎌倉にはなかった。
ある日の授業中、先生がこう言った。
「みんなにとっての故郷は鎌倉になるんだよ」
鎌倉に来て数週間の自分が、鎌倉を故郷だと言えるはずがない。
かと言ってかつて暮らしていた沖縄は私が故郷だと言うことを決して許しはしないだろう。
ならば一体、どこが私の故郷になってくれるというのだろうか。
『内地の人間』の私は故郷の地に帰ってきたのだと思っていた。
しかし、本当のところ私には故郷などなく、
それどころかそもそも内地には『内地の人間』という概念すらなかった。
宙ぶらりんになったアイデンティティのむこうに、あの終わりのない空と海ばかりが浮かんでいた。
勉強机の下でこっそりと、誰にも気付かれないように日本地図を開いた。
沖縄は見開き1ページにおさまることなく、線で区切られて隅に小さく載っていた。
この場所から沖縄はこんなにも遠い。
海のずっとずっと向こうだ。
こんなにも遠くまで来てしまったから、もう沖縄に『帰る』ことはできない。
私はここで頑張るしかないのだと思った。
日本地図が歪んで、滲んでいった。
ドラマのワンシーンみたいだと思った。
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沖縄を離れて随分経つ。
気付けば神奈川で10年以上を過ごしていて、言葉も文化も随分とハマっ子らしくなっていると思う。
沖縄で過ごした大切な4年間は、人生の6分の1以下になってしまった。
しかし、ただひとつだけわかってきたのは、
繰り返す引っ越しの中でどこを離れてもさして恋しいと思わなかったのに、沖縄だけは強烈に恋しかったということだ。
先般、沖縄を訪れて、母が教育のために沖縄を離れたことを明かしてくれた。
それがどういうことなのか母に尋ねる必要はなかった。
尋ねずともわかってしまったことがなによりもかなしかった。
東京の大学を出て、今は東京の高層ビルで少しばかりむずかしい顔をしながら、カタカタとPCを操作する生活をしている。
この生活を特段愛しいとも思わないが、
沖縄を離れて手に入れた生活を投げ打つには
すこし勇気がいる。
子供の頃に過ごした場所が故郷だとすれば、
私にとっての故郷はつまるところ横浜などになってしまうのかもしれないが、
郷愁を感じるのが故郷だとすれば、
沖縄を故郷だと言っても許されるのかもしれない。
永遠に受け入れてもくれず、かといって拒むこともない場所だからこそ猛烈に惹かれる。
手に入れてしまったものを捨てる覚悟ができたとき、いや、そんな日がくるとは到底思えないけれども、人生の選択肢の中に沖縄がいつもあること、それだけで幸せな気持ちで生きていける。
次に生まれ変わっても必ず沖縄に出会いたいと思う。
私にとって沖縄は永遠のニライカナイなのかもしれない。