サラリーマンという生き物は、人事異動に翻弄される、哀しき性のもとに生まれている。
当然私も御多分に洩れず、そんな性とともに日々を過ごしてきた。
とは言え、最初の数年はそこそこ周りに恵まれ、それなりに楽しくやれていたし、大きな不満もなかった。
しかし、突然の "ハズレクジ" は前置きなくやってくる。
社会人3年目の中頃に異動してきた上司が、なんともまあ、全くもってウマが合わなかったのである。
どう合わなかったかを話せば、つまらぬ自己弁護にしかならないので割愛するが (いや、本当のところ当方の正当性をいつまでも抗弁したいほどだが)、
1年も一緒に仕事をしていると (上司は一緒に仕事をしてくれなかったので、厳密には一緒に仕事をしておらず、同じ空間にいただけではあるが)
段々と気が滅入ってきた。
人事部に相談したが、半年以内の異動はむずかしいと言う。
代わりに、復職後の異動を条件に休職することを提案された。
この提案には当初かなり面食らった。
しかし、このまま少なくとも半年、前述の上司とともに仕事をしても、 (再掲: "ともに" 仕事をしたことはないが) 苦しみしか生まれない。
意を決して、かねてから罹っていた心療内科のF先生に「休職した方がいいかなと思いまして…」と打ち明けた。
すると、あっさり「休職しましょうか」と返ってきたので、昨年秋頃から会社を休むことにした。
このF先生という人は、「薬をください」と言えば薬をくれるし、「薬を減らしたい」と言えば薬を減らしてくれる。
ゆるふわな先生で非常に助かっている。
とは言え、困るのは金銭面である。
会社を休むのだから給料はもらえない。
ただ、幸運なことに私は実家で暮らしているため、支出はかなり抑えられる。
まあ、すこしの間、収入がゼロでもいいか。
父が買った家で、母が作った食事をとりながら
悠々自適に休職ライフを楽しもう。
そう余裕をこいていたある日、突如として悲劇が襲った。
会社から一通の封書が届いたのである。
『振込依頼』
恐る恐る封を切ると、休職によって会社が立て替えた社会保険料やらナンタラ料だかを払えという内容だった。
はあはあ、まあそういうこともあると社内のウェブサイトに書いてあったなあ。
そう思いながら、支払金額を確認する。
期日までにお振込ください。
¥272,000-
…いち、じゅう、ひゃく、せん、まん…
にじゅう…ななまん…?
いや、待ってくれ。
もう一度ゼロを数えてみる。
やはり、27万の日本円である。
血の気が引く、というのが比喩表現ではないことをはじめて知った。
身体の力が抜けて、フラフラと床に手をついた。
胃液が逆流する。
昼間食べたハンバーグを吐きそうだ。
あらためて内訳を確認するが、
紛うことなく、確かに、累計27万円だ。
私が一体なにをしたというのだ。
奮発したGUCCIの鞄だって、
ヨーロッパ旅行だって、
27万円もしなかった。
それが、ただここで呼吸をしているだけの日々で27万円。
つまり、呼吸代、27万円。
横から母が「鎌倉に住んでいた時の家賃はこんなもんだったよ」と慰めてくれたが、
それは居住空間という対価を得ているではないか。
私の27万円は、家賃月ウン十万円の家で過ごそうが、横浜市の路上で過ごそうが、別途発生してしまう27万円なのだ。
呼吸だけが対価の27万円なのだ。
しかし考えてみれば、この27万円も、仕事をしていた時は細々と払っていたということになる。
私ほど頻繁に病院に行く人間ですら、社会保険料を納めるより、医療費を10割負担した方がよっぽど安い。
高額な税金を、国および横浜市という税金吸い取り自治体に支払い、子どもや老人たちに還元していたのである。
国民の三大義務のうち、勤労と納税をやり遂げる労働人口は、働いているだけでなんと社会に貢献しているのだろうか。
もっと感謝されたっていい。
いやいや、社会貢献のためだと思えば、27万円もなんてことはない。
これは喜捨だ。
喜んで、捨てる、と書く、喜捨である。
この27万円で、道を歩く子どもが無料で給食を食べられるかもしれないし、杖をつく老人が1割負担で望む医療を受けられるかもしれない。
しかし、悲しいことに、道ゆく子どもや老人は全く困窮しているようには見えない。
どころか身なりは美しく、子どもなどは惜しげもなくお菓子を食べ散らかしている。
これは呼吸代で27万円もとられた私が、1番困窮しているのではないかーーーーーー。
「私が死んだら遺産をあげるからね」と母が言う。
違うのだ。いつもらえるかわからない不確実な遺産より、いま目の前の27万円が惜しいのだ。
実家暮らしだと言うと、お金が溜まっていいね、と言われる。
一人暮らしのコスパが悪いことは承知の上で、
しかしこれは言っておきたいのだが、実家暮らしであれば自動的に金が貯まるわけではない。
私はなかなかの倹約家であり、衝動買いはうまれてこの方一度もしたことがない。
3,000円の水筒を買うことすら1ヶ月しぶる。
「あ〜これカワイイ〜買っちゃお♡」
などといつかゴミになるものを思いつきで買うような浪費は決してしたことがない。
100円、200円単位で本当に必要なのか吟味し、慎重な消費を心がけている。
その私が、全くもって吟味することもできず、
突如として27万円を支払う義務を負っている。
人は生きるだけで金がかかるのか。
生まれてきたいとオーダーしたわけでもないのに。
つい出生にまで思いを馳せてしまったが、義務からは逃れられない。
しぶしぶインターネットバンキングで指定の口座に振り込む。
ATMで振り込むよりも手数料が安いことが、心を軽くした。
3月から、異動のうえで復職する。
異動自体は喜ばしいことなのだが、
"まだ休職による控除が残っているのか"
その1点だけがあまりにも気がかりである。
控除が重なれば、3月の給与はアルバイト並みかもしれない。
キリキリと痛む胃をいたわって、胃薬を1錠飲んだ。
胃薬が効いてくれれば良いのだが。
ああ、日本国、横浜市、私にも現金を給付してくれないか。
もちろん、非課税で、お願いします。