暇コラム

かいさ〜ん

「自分らしさ」の呪縛の話

「自分らしく」とはじめて言われたのは、小学校の道徳の授業だったと思う。
自分らしく生きよう、いきいきと、のびのびと生きよう、そう語りかける教科書に違和感を覚えた。
学校で評価されるのは、決まってテストの点がよく、行儀がよい子供で、そういう優等生像に個性が入る余地はなかった。
優等生像を演じるのは簡単だ。
私の成績はいつもよく、教員からのコメント欄には毎年「クラスの模範です」と書かれていた。
当然だった。そう書かれるような生活態度をとっていたからだ。
学校で評価されたいなら、個性はいらない。
それなのに、その学校が個性を訴えることが滑稽で気持ち悪かったのだ。

中学生のとき、教員に「あなたらしくない」と言われたことがある。
学校が強いる「生徒らしさ」を守って生きてきたのだから、私個人の「らしさ」など元々ない。
「あなたらしくない」のは至極、当たり前のことだった。
私らしさってなんですか、と喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
「私らしさ」がわかるなら教えてほしかったが、誰もその答えがわからないことも理解していた。

平成とはじまったばかりの令和しか知らない身でこれは肌感でしかないが、平成は「個性」が過度に叫ばれた時代だったと思う。
個性がもてはやされ、時におもしろおかしくメディアで味付けされながら、日本の中の様々な性質がクローズアップされていった。
本当は誰も個性を評価していないのに、さも評価されているようだった。

大学ですこし社会学を学んで、アイデンティティとは現代に後発的に現れた概念だと知った。
自分が一体何者なのか規定してくれる他者がいなくなったことで、アイデンティティ」を作り出そうとする。
そういう動きが現代にあると、社会学者が指摘したのが「アイデンティティ」つまり「個性」という概念のはじまりであるらしい。

平成の時代は、親の職業を継承しなくなり選択肢が広がった時代だった。
しかしそれは裏を返せば、親の世代では不要だった人生の大きな判断を迫られるようになったということだ。
人々はおそらく戸惑ったはずだ。どうやって判断すればいいのか、誰も教えてくれないからだ。
その不安の裏返しとして、「自分らしく」人生を歩くという姿が過度にもてはやされたのではないかと思う。
そもそも「自分らしさ」が本当に存在する概念なのかすら誰もわからないのに、「らしさ」への絶対的な肯定感だけがひとり歩きする。
この気持ち悪さを受け入れられず、「自分らしさ」という言葉を避けてきた。

しかし、ここ数日、「らしさ」をどう咀嚼すればよいのかわかってきた。
そもそも「らしさ」という言葉自体が、演出的な表現を含んでいる。
ありのままではなく、多少の模倣が求められる表現であるように思う。
虚構ではない、現実の「らしさ」あるいは「個性」とはなにか、と考えたときに結局直感ではないかという考えに至った。
直感は繊細で、説明がつかないことが多い。
説明はつかないが、大抵揺らがない。
今の自分を快と感じるか、あるいは不快と感じるか、その直感に従ってみるのが「らしさ」なのかもしれないと思う。
萎縮する自分や、躊躇する自分をみつけては不快感でいっぱいになる。
挑戦しない自分も、納得しない環境にいる自分も、不快だ。
そういう感覚に素直に従って、どうすれば自分に肯定感をもてるのか感覚の実績を積み上げていく
この営みが「自分らしさ」の創出ではないかと、今思っている。
ありのままの自分を肯定するのではなく、社会にもまれながら、役割を果たす自分を肯定できるようにふるまう。
自分らしさという表現からかけはなれた、決して尊くはない営みだが、
それが今の私にとって「自分らしさ」の呪縛から解き放たれる唯一の方法だと考えている。