暇コラム

かいさ〜ん

弔文

死のうと思っていた。

学校の廊下で自分を刺すつもりだった。

 

いつ、どうやって決行するか二週間考えた。

最後に自分を刺すナイフを買おうと店に出向いた。

 

手が、震えた。

ナイフを棚から取ることもできなかった。

 

私は死ねなかった。

 

 

あのときナイフを手にしていたら、

あのとき本当に自分を刺していたら、

あるいはもっと心をすり減らした先で

意思も意識もないまま、ふと命が途切れていたら。

 

誰かが死を選ぶたび、

あのまま死んだもうひとりの自分の

死後の世界をみているような、そんな気分になってしまう。

 

昨日となにも変わらない風がふき、

昨日と変わらない人々の生活がある。

ただそこに昨日まであった命だけがない。

平等に、残酷に、明日が来る。

私たちは今日も誰かのいない明日を生きている。

 

あのとき死ななくて良かったのかどうか、

問われると答えに窮してしまう。

あのあと幸せなことにも愛する人にも

たくさん出会ったはずなのに、

私はなんと答えていいのかわからなくなるのだ。

 

生きてさえ、いれば。

そう聞くたびに、もうひとりの自分が言う。

もう必死に生きた、私を責めないで、と。

 

もしあのとき連絡していたら。

もしあのとき無理やりでも病院に連れていっていたら。

残された人間の後悔は途切れることはないが、

どれもすべて空虚でしかない。

誰かの助けが欲しかった人もいれば、

もうなにも欲しくなかった人もいる。

誰かを恨んでいた人もいれば、

なにも恨んでいなかった人もいる。

今、目の当たりにしている社会で、

救いを求める人がいるなら

さしのべる手が必要なのはたしかだろう。

だが、どんな人生の終え方でも

その人の人生が尊いものであったことに変わりはない。

残された我々は、批難でも後悔でもなく、

深い愛と感謝を抱えて生きていこう。

それが残された者にできる弔い方だと思っている。

沖縄の話

沖縄県宜野湾市というところで4年間暮らしたことがある。

宜野湾は那覇から程近いベッドタウンで、観光地らしい観光地のない静かなところだ。


生まれは関西だが、関西の記憶はほとんどない。

沖縄は私にとってきちんと記憶があるはじめての場所になる。

 

抜けるような青い空、どこまでも続くエメラルドグリーンの海、輝く白い砂浜。

三線の音楽と陽気な人々、暖かい南国の風。

観光客向けのパンフレットに描かれる沖縄をそのまま、特に珍しいものだとも思わずに享受した。

それはきっととてつもない贅沢だったのだと思う。

 

しかし、これもしばしばメディアに取り上げられるように、沖縄は閉鎖的で保守的な土地でもある。

私たちは「ナイチャー」つまり県外からきた『内地の人間』と呼ばれる。

そしてそうであることは、申告するまでもなく顔つきや名前でわかってしまう。

 

沖縄戦沖縄県民を死に追いやったのは、敵国だったアメリカの人間ではなく内地の人間だったと何度も聞かされた。

沖縄の反戦教育は、関東の比ではない。

学者によっては沖縄の戦争はまだ終わっていないと主張する人もいるほどに、生活の中に戦争の影が溶け込んでいる。

幼稚園児だった私は、戦争という得体の知れない恐ろしい概念とそれに相対する内地という存在を前に、『内地の人間』としてのアイデンティティを内在化せざるを得なかった。

 

南国の太陽の下で沖縄の歌や文化をどんなに覚えても、

私はなまりのない言葉を話すことにこだわり、

沖縄料理よりも「普通の」日本食を好んで食べた。

小学校のクラスメートにはそもそも純日本人ではない子もいたから、内地の人間としてのプライドをむくむくと育てていくのに環境は十分だった。

 

そんな沖縄での生活はあっけなく終わった。

小学2年生の冬、私は『内地』に戻り、

鎌倉という穏やかなところで暮らすことになった。

 

沖縄では一際色白で、内地の文化を持っていたはずの自分が、

引っ越した先の鎌倉では誰よりもこんがりと焼けた肌をしていて、そして内地のことをなにも知らなかった。

沖縄県外に米軍基地があることも、慰霊の日が全国区ではないことも、ぜんざいは温かいということも、なにひとつ知らなかった。

 

鎌倉での生活でつらいことはなかった。

誰もが優しかったし、おだやかでいい場所だった。

ただ、どこまでも広がる青い空が、

真っ白な砂浜が、抜けるように鮮やかな海が、

夕方の街に響く三線の音が、鎌倉にはなかった。

 

ある日の授業中、先生がこう言った。

「みんなにとっての故郷は鎌倉になるんだよ」

 

鎌倉に来て数週間の自分が、鎌倉を故郷だと言えるはずがない。

かと言ってかつて暮らしていた沖縄は私が故郷だと言うことを決して許しはしないだろう。

ならば一体、どこが私の故郷になってくれるというのだろうか。

 

『内地の人間』の私は故郷の地に帰ってきたのだと思っていた。

しかし、本当のところ私には故郷などなく、

それどころかそもそも内地には『内地の人間』という概念すらなかった。

宙ぶらりんになったアイデンティティのむこうに、あの終わりのない空と海ばかりが浮かんでいた。

 

勉強机の下でこっそりと、誰にも気付かれないように日本地図を開いた。

沖縄は見開き1ページにおさまることなく、線で区切られて隅に小さく載っていた。

この場所から沖縄はこんなにも遠い。

海のずっとずっと向こうだ。

こんなにも遠くまで来てしまったから、もう沖縄に『帰る』ことはできない。

私はここで頑張るしかないのだと思った。

日本地図が歪んで、滲んでいった。

ドラマのワンシーンみたいだと思った。

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沖縄を離れて随分経つ。

気付けば神奈川で10年以上を過ごしていて、言葉も文化も随分とハマっ子らしくなっていると思う。

沖縄で過ごした大切な4年間は、人生の6分の1以下になってしまった。

しかし、ただひとつだけわかってきたのは、

繰り返す引っ越しの中でどこを離れてもさして恋しいと思わなかったのに、沖縄だけは強烈に恋しかったということだ。

 

先般、沖縄を訪れて、母が教育のために沖縄を離れたことを明かしてくれた。

それがどういうことなのか母に尋ねる必要はなかった。

尋ねずともわかってしまったことがなによりもかなしかった。

 

東京の大学を出て、今は東京の高層ビルで少しばかりむずかしい顔をしながら、カタカタとPCを操作する生活をしている。

この生活を特段愛しいとも思わないが、

沖縄を離れて手に入れた生活を投げ打つには

すこし勇気がいる。

子供の頃に過ごした場所が故郷だとすれば、

私にとっての故郷はつまるところ横浜などになってしまうのかもしれないが、

郷愁を感じるのが故郷だとすれば、

沖縄を故郷だと言っても許されるのかもしれない。

 

永遠に受け入れてもくれず、かといって拒むこともない場所だからこそ猛烈に惹かれる。

手に入れてしまったものを捨てる覚悟ができたとき、いや、そんな日がくるとは到底思えないけれども、人生の選択肢の中に沖縄がいつもあること、それだけで幸せな気持ちで生きていける。

次に生まれ変わっても必ず沖縄に出会いたいと思う。

私にとって沖縄は永遠のニライカナイなのかもしれない。

アイドルの話2

冒頭で断っておくが、筆者は2019年の夏頃から、怒涛の勢いでジャニーズ事務所にハマっている。

芸能人の話はファンでない人間にとっては非常につまらない。

社会学の某書でオタク気質の過剰さはコミュニケーションを阻害するというニュアンスのことが書いてあったが、本当にその通りだと自覚している。

自覚した上で、閉鎖的な自分の性格を直す取り組みとして自己開示をするために、積極的に好きなアイドルの話をしていきたい。

これは所謂オタクの言い訳である。

オタク以外に推しの話をしてしまいがちなオタクにぜひ使ってほしい。

 

さて本題に入ろう。

以下、2組のグループのデビューを祝して書き連ねるものである。

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2020年1月22日、ジャニーズ事務所から2組のグループがCDデビューした。

デビューを果たしたのは結成8年のSnow Manと結成5年のSixTONES、計15名である。

 

ジャニーズ事務所から2組が同日にデビューするのは初めてのことだ。

通例、ジャニーズでは複数組いるデビュー候補のうち、一組だけが選ばれてデビューしていく。

2組同時デビューはそんなジャニーズのデビュー文化を変えるものだった。

 

たしかに「同時デビュー」はキャッチーではあったし、話題を呼びやすかったと思う。

なにより、長いJr.生活を経た彼らと応援し続けたファンにとっては、どんな形であれ待ち焦がれた「デビュー」のはずだった。

 

しかし、現実にはこの同時デビューは、ファンの間で物議を醸すことになった。

デビュー発表日から約半年の間、実に多くの真偽不明の情報が飛び交った。

やがてファンは事務所やメンバーの一挙一動に過剰に反応するようになった。

その結果、アイドル人生でもっとも喜ばしいはずのデビューをファンですら喜べない状況があったことは否めない。

 

アイドルグループは変わっていくものである。

しかし、その変化はメンバー本人が望まない変化であることも多い。

そしてほとんどの場合は、本人が本当のところどう思っているのかをファンが知るすべはない。

結局、変化を受け入れられないファンは淘汰されていく。

 

アイドルはショービジネスのひとつの形態に過ぎない。

彼らは多分に演出された存在で、真の姿などなく、真実を求めてもいけないのだろう。

 

だからこそファンはアイドルの虚構を信じて消費し、その上で血の通ったアイドル本人の幸せを願うしかないのだと今は思っている。

 

アイドルの世界は、一般社会以上に努力がそのまま成果につながることのない世界だ。

アイドルは売り手に左右される商品でしかない。

その事実を受け止めた上で、ファンとして彼らの幸せを願い続けようと思う。

 

15人全員の前に、それぞれの努力に見合った、望んだとおりの将来が待っていますように。

Snow ManSixTONES、デビューおめでとう!

2019年の話

大したことのない、2019年を振り返る。 

 

・仕事の
人の仕事の話は大抵つまらない。
戦場カメラマンとか、珍しくて特殊な仕事なら需要もたんまりあるだろうが、私は一般企業の会社員なので割愛する。
 

・途上国の話 
散々将来の目標を語っておいて今更だが、 2019年ははじめて開発途上国を訪れた年だった。
アジアの中でも貧困国とされるカンボジア、驚異的な成長を遂げるインド。
むきだしの人間性は強烈で、その可能性にただただ心が躍った。
東南アジアは沖縄に似ている。
不思議な懐かしさにつつまれながら、私はたしかにああいう熱気の中で育ったのだと思った。
 
世の中には努力だけでなんとかなるものとならないものがあると思っている。
おそらく前者は健康な人間の筋トレくらいで、大抵の物事においては努力がそのまま結果につながることは稀だ。
期待よりもずっと遅くチャンスが訪れることもある。
自分の力が及ばないところについては意識を手放し、タイミングが来たら、それをいとおしみながら享受する。
そうできなければ永遠に人生への不満が募ってしまうのだろうと思う。
チャンスがくるまで、できる限り多くの物事をこの目で見て
焦らず、しかし着実に、この場所でできる最大限の経験を積み重ねていきたいと思っている。
 
・体調の話
こんなに体調の悪い1年は10年ぶりだった。
いや、純粋な体調という意味で言えばはじめてかもしれない。
 
3月あたりから、急に更年期のような状態になってしまった。
冷や汗と頭痛が止まらず、耐えがたい倦怠感でほとんど仕事にならない。
来週も体調がわるかったら、もう休職しよう。
そう思いながら毎週を消化試合のように過ごした。
当然病院には行ったが、原因はわからず、できることはないと言われて途方に暮れた。
結局なにが良かったのかはわからないが、夏ごろには落ち着いて、今はある程度回復している。
来年は体調が良い一年だといいなあと思っている。
初詣に願うことは健康。その2文字だけである。
 
・岸優太くんの話
もはやこの人をなくして2019年を語ることはできない。
King&Prince 岸優太。
アイドルはハロプロだけだと思っていた私を見事にジャニーズという沼に引きずり込んだ男である。
舞台仕込みのダンス、リズム感、ピッチ、やわらかい発声と表現力をあわせもったグループ随一の歌唱力、
繊細で目を惹く演技、豆粒のように小さな顔と長い脚、
そして抜群の愛され力。
あっさり陥落し、私は日々ジャニオタとして圧倒的な成長を遂げている。
 
堺雅人井上芳雄が結婚した今、家庭を感じさせない男はもう岸優太しかいない。
別に独身でないと嫌だというわけではないが、どちらかと言えば独身の方が良い。
岸くんのことは素敵なアイドルとして、これからもまっすぐ応援していきたい。
 
しかし、堺雅人はかつて「早稲田のプリンス」と呼ばれていたし、 井上芳雄も「ミュージカル界のプリンス」、
ここへきて「Prince」というグループに所属していた岸優太にハマるなんて、つくづくプリンス好きな女である。

クリスマスの話

クリスマスの高揚感よりも、 出勤最終週の高揚感が勝ってしまうのは、雇われている人間の悲しい性である。
イルミネーションに照らされた街並みに心がおどらないわけではないが、今年の12月25日は週のどまんなかの水曜日であり、 サラリーマンにとってはただの冬の寒い一日である。


せめて気持ちだけでもと、 ありったけのクリスマスグッズを自宅に飾っているが、ハロウィン終わりからずっと飾っているのでもはや風景と化している。
枕元の小さいサンタも岸優太の写真のうしろでやや気まずそうにしており、なんだか申し訳ない。


思い返すと子供の頃のクリスマスは特別で、 夢がつまった一日だった。
休業中だった母は行事ごとを大切にしてくれていたから、 それはとても楽しかった。
幼少期を過ごした沖縄では、クリスマスの高揚感はより宗教的な色をみせる。
その他にはない空気感がまた、思い出を特別なものにした。


仕事をするようになり、 たしかに欲しいものは自由に買えるようになった。
子供の頃欲しかったおもちゃも文房具も、 大抵のものは一日働けば買えてしまう。
ただ、 顔もわからないどこかの誰かが自分を想ってプレゼントを届けてく れるという、
あのあしながおじさんのようなときめきはお金では買えない。
クリスマスが特別なのは、 普段うけている周りの大人からの愛情以外で、どこかの誰かに愛されているという漠然とした新鮮な愛を感じられ るからかもしれない。
 
子供の頃の夏がもう帰ってこないのと同じように、 子供の頃のクリスマスももう帰ってこない。
クリスマスはどこかそんな切なさを纏っているように思う。


昨年まで30年間祝日だった12月23日も、 今年から平日になってしまった。
上皇誕生日として過ぎた時代をいとおしむ1日にしてくれても一向 にかまわないのだが、思いは届かず、しぶしぶ出勤している。
しかし、天皇誕生日、クリスマスイブ、 クリスマスという流れは間違いなく日本のクリスマスを彩っていたと思う。来年から「上皇誕生日」が復活することを祈っている。
そうすれば大人も多少はクリスマス気分を味わえて楽しくなるかも しれない。


そんなことをつらつら考えているうちに、 今年最後の出勤週の1日目が終わろうとしている。
なんとも色気もまとまりもない文章だが、 クリスマスの高揚感ということで許してほしい。
仕事納めまであと4日、 来年の自分に期待をしながら粛々と過ごしていきたい。

「自分らしさ」の呪縛の話

「自分らしく」とはじめて言われたのは、小学校の道徳の授業だったと思う。
自分らしく生きよう、いきいきと、のびのびと生きよう、そう語りかける教科書に違和感を覚えた。
学校で評価されるのは、決まってテストの点がよく、行儀がよい子供で、そういう優等生像に個性が入る余地はなかった。
優等生像を演じるのは簡単だ。
私の成績はいつもよく、教員からのコメント欄には毎年「クラスの模範です」と書かれていた。
当然だった。そう書かれるような生活態度をとっていたからだ。
学校で評価されたいなら、個性はいらない。
それなのに、その学校が個性を訴えることが滑稽で気持ち悪かったのだ。

中学生のとき、教員に「あなたらしくない」と言われたことがある。
学校が強いる「生徒らしさ」を守って生きてきたのだから、私個人の「らしさ」など元々ない。
「あなたらしくない」のは至極、当たり前のことだった。
私らしさってなんですか、と喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
「私らしさ」がわかるなら教えてほしかったが、誰もその答えがわからないことも理解していた。

平成とはじまったばかりの令和しか知らない身でこれは肌感でしかないが、平成は「個性」が過度に叫ばれた時代だったと思う。
個性がもてはやされ、時におもしろおかしくメディアで味付けされながら、日本の中の様々な性質がクローズアップされていった。
本当は誰も個性を評価していないのに、さも評価されているようだった。

大学ですこし社会学を学んで、アイデンティティとは現代に後発的に現れた概念だと知った。
自分が一体何者なのか規定してくれる他者がいなくなったことで、アイデンティティ」を作り出そうとする。
そういう動きが現代にあると、社会学者が指摘したのが「アイデンティティ」つまり「個性」という概念のはじまりであるらしい。

平成の時代は、親の職業を継承しなくなり選択肢が広がった時代だった。
しかしそれは裏を返せば、親の世代では不要だった人生の大きな判断を迫られるようになったということだ。
人々はおそらく戸惑ったはずだ。どうやって判断すればいいのか、誰も教えてくれないからだ。
その不安の裏返しとして、「自分らしく」人生を歩くという姿が過度にもてはやされたのではないかと思う。
そもそも「自分らしさ」が本当に存在する概念なのかすら誰もわからないのに、「らしさ」への絶対的な肯定感だけがひとり歩きする。
この気持ち悪さを受け入れられず、「自分らしさ」という言葉を避けてきた。

しかし、ここ数日、「らしさ」をどう咀嚼すればよいのかわかってきた。
そもそも「らしさ」という言葉自体が、演出的な表現を含んでいる。
ありのままではなく、多少の模倣が求められる表現であるように思う。
虚構ではない、現実の「らしさ」あるいは「個性」とはなにか、と考えたときに結局直感ではないかという考えに至った。
直感は繊細で、説明がつかないことが多い。
説明はつかないが、大抵揺らがない。
今の自分を快と感じるか、あるいは不快と感じるか、その直感に従ってみるのが「らしさ」なのかもしれないと思う。
萎縮する自分や、躊躇する自分をみつけては不快感でいっぱいになる。
挑戦しない自分も、納得しない環境にいる自分も、不快だ。
そういう感覚に素直に従って、どうすれば自分に肯定感をもてるのか感覚の実績を積み上げていく
この営みが「自分らしさ」の創出ではないかと、今思っている。
ありのままの自分を肯定するのではなく、社会にもまれながら、役割を果たす自分を肯定できるようにふるまう。
自分らしさという表現からかけはなれた、決して尊くはない営みだが、
それが今の私にとって「自分らしさ」の呪縛から解き放たれる唯一の方法だと考えている。

インド旅行の所感1

1週間のインド旅行から帰国した。
日本では隠されている人間の情熱や格差がむき出しになっている国で、くらくらするほど刺激的だった。自らの適応能力に驚くとともに、海外赴任への思いが強くなった1週間でもあった。

日本の情報の流れははやい。たった1週間離れただけで、色々なものが変わっていた。
ただ、いずれもテレビのむこうの話で、こういう情報に日常的にふれている生活自体、情報過多なのだろうと思う。
インターネットの情報は時折、五感でとらえた景色の新鮮さを消失させる。
仮想空間では、望んだ情報だけを切り取って受け取ることができるから、一歩間違えると自分の中の偏見を加速させる。
情報社会のことは肯定的にとらえているが、情報とうまく付き合っていく大人でいなければ、情報社会では生きていけないと自戒を込めて思っている。

日本は、ハイコンテクスト文化をもつと言われる。
ハイコンテクストとは、簡単に言えば「暗黙の了解が多すぎる」ということである。
身なりも行動も言葉も、すべて自制心をもつことを求められる。ネルギーを使う国だと思う。
一旦インドに慣れてしまうと、どこまで気遣いをすればいいのかわからなくなり、困惑する。
自らを縛る足かせをすこしずつほどいていく令和にできたら、もっと生きやすくなるはずだ。

日本はきれいで、香りのない国でもある。
格差は隠されて、汚いものが目に入らないようにできている。
帰国初日の会社のランチ会で、汐留の46Fから街を見下ろしながら高価な食べ物を口にして、ぞっとした。
うまれてからずっと、私はこういう世界で生きてきたのだと事実を突きつけられた気分だった。
平均よりも裕福な家庭で育ち、同じように裕福な友人に囲まれ、その誰もが大学を出て今はホワイトカラーに従事している。
これが世界だと思っていたわけではない。今の日本における高卒以下と大卒の間にある大きな断絶については理解しているつもりでいる。それでも、それは文字を通して学んだだけで、むきだしの現実として目の当たりにしたわけではない。

この世界がすべてではないかと錯覚してしまうほど、私は、同じような人としか付き合ってこなかったのだと思う。
予備校時代、世界史担当の講師が、歴史を学ぶ意味は自分の時代がどれだけ異常かを知ることにある、と教えてくれた。もっとたくさんのものをこの目で見て、聞いて、世界を知っていきたい。
自分の立ち位置がどれだけ特殊なのか知っていきたい。
探し続けている「やりたいこと」はきっとその先にあると思う。